「なければならない」「てもいい」「なくてもいい」「てはいけない」
前回扱った、みんなの日本語初級Ⅰの15課+17課の問題の続きだが、今回は教科書の問題ではない。
変換練習ができるようになった学生に、このような問題を出すと、なかなかできない。
【問】あなたの国のことを教えてください。
- ( )なければなりません。
- ( )なくてもいいです。
- ( )てもいいです。
- ( )てはいけません。
て形・ない形の変換ができたとしても、たとえば「わたしの国では、男と男が結婚しなくてもいいです」のような誤用が出てくる(実体験)。この文を見たとき、「えっ、あなたの国では同性結婚がふつうだけど、例外も認められてるの?」というのが日本語母語話者の自然な反応だろう。ただ、冷静に考えてみると(あくまでも論理的には、だが)同性結婚が認められている国で同性結婚を「しなくてもいい」というのは間違いではない。論理的に間違っていない以上、単純化して教わった非母語話者がこのような文を作ってしまうことをとがめることはできない。
では、どうして論理的に間違いではないのに、ネイティブにはおかしく感じられるのか。
これは、実際にはこんな表にまとめることができるだろう。
する度 |
外部からの強制 (一般論として) |
自発的 | ||
「する」基準 | 半々 | 「しない」基準 | ||
100% | Vなければならない | Vする | × | × |
| | × | ↓ Vなくてもいい |
Vてもいい ↑ |
|
50% | Vてもいいし、 Vなくてもいい |
|||
| | × | |||
0% | Vてはいけない | × | Vしない |
「~てもいい」は、この表でいえば下の「~しない」のが普通であるとき、そうする人がゼロではないという「下からのプラス」表現である。一方、「~なくてもいい」は、上の「~する」のが普通であるとき、そうしない人がゼロではないという「上からのマイナス」表現である(だからこそ「ない」が含まれる)。
する度 |
外部からの強制 (一般論として) |
自発的 | ||
「する」基準 | 半々 | 「しない」基準 | ||
100% |
食事は残さず 食べなければなりません |
出されたものは 全部食べます |
× | × |
| | × |
↓ 食べなくてもいいです |
おかわりしても いいですよ ↑ |
|
50% | 食べてもいいし、 食べなくてもいいです |
|||
| | × | |||
0% |
古くなった牛乳を 飲んではいけません |
× |
ありません |
「パセリは食べなくてもいいですよ」という表現は、「食事は残さず食べるものだ」という前提からの「マイナス」表現だから「~なくてもいい」を使う。一方、「おかわりしてもいいですよ」という表現は、「普通はごはんは一杯だけしか食べない」という前提からの「プラス」表現だから「~てもいい」を使う。
ややこしいのは、「Vても/Vなくても いい」表現は、基準点から大きく離れたところで使われやすいということだ。
「パセリは食べなくてもいい」という表現は、「残さず食べる」という前提から出てきた表現なのに、実際に食べるかどうかという点では、限りなく「食べない」の方に近い。気持ちとしては、「パセリは食べないものですよ」に限りなく近い。
一方、「おかわりしてもいいですよ」表現は、「おかわりはない」という前提から出てきた表現なのに、実際には「ぜひおかわりしてくださいね」という気持ちに近い。
さらに言えば、「Vてもいい」も「Vなくてもいい」も、それが例外なるがゆえに喜ばしいことだという気持ちが含まれる。パセリって食べるの?あ、食べなくていいのか。ごはんはこれだけ?あ、おかわりしてもいいの!
このように、本当の気持ちから遠く離れた基準点からの表現を行っているので、「てもいい」表現は実は奥が深いと言える。
最初に戻って、「わたしの国では、男どうしで結婚してもいいです」は可で、「男どうしで結婚しなくてもいいです」は不可、というのは、これで説明が付けられる。通常は男同士で結婚しない。その現実をもとに、でも例外として認められているところを強調して述べているので、「結婚してもいい」が正しい。ただ、「結婚してもいい」だと、それが喜ばしいことのように感じられてしまう。「なくてもいい」だと、しないことが喜ばしいのである。誤用例について確認したところ、この文を書いた男子学生は異性愛者だとのことだったので、「しなくてもいい」方が気持ち的にはぴったり来たのでそちらを使ったのかもしれない。そうだとすれば、実はニュアンスをつかんでいたという可能性もある(単に理解していなかったという可能性の方が高いが)。
もし「結婚してもいい」という事実に対して、好悪の感情を乗せずに表現するとしたら、「結婚する人もいる」とか「結婚することが認められている」といった表現になって、初級教科書15課・17課の範囲からは外れてくる(確かに、外れたからどうなんだということにはなるが、まあそこはそれ、カリキュラムとかシラバスというものもありますので)。
……と長々と書いてきたが、教室では「ふつうしません→してもいいです(ラッキー)」「ふつうします→しなくてもいいです(ラッキー)」程度の教え方でいい、ということになるだろうか。
余談ながら、私はパセリも海老の尻尾も食べる派である。