違いのわかる日本語――日本語教師の日本語メモ

日本語学校で教えている日本語教師の備忘的メモです。学術的な正確さは保証の限りではありません。このブログの記載は、勤務先の日本語学校の見解ではありません。随時修正・追記します。

小池都知事の志村けん「最後の功績/最期の功績」発言の日本語的不適切性

志村けんさんの訃報に対し、心からお悔やみを申し上げます。

さて、この訃報に接しての小池都知事の「最後(最期)の功績」コメントが炎上している。


志村さん死去、都知事「危険性のメッセージ届けた」

謹んでお悔やみを申し上げたいと存じます。

志村さんといえば、(ほんとにあの、)エンターテイナーとして(ですね)、みんなに(、あの、よろ……なに……)楽しみであったり、それから、笑いを届けてくださったと感謝したい。

で、最後に(ですね、)悲しみとコロナウィルスの危険性について(ですね)、しっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという(、その功績も、){最後/最期}の功績も大変大きいものがあると思っております。

「 コロナウィルスの危険性についてメッセージを届けたという{最後/最期}の功績」という表現が不適切だと炎上した。

なお、一般的に「最後の功績」と書かれていることが多いが、これは数々の功績の中の「最後」であると同時に、臨終を表す「最期」の意味で発言されたものであるとも理解できるため、本稿では両方を検討することとする。

この『女性自身』の記事で挙げられた批判とフォローのそれぞれの要点をまとめると、以下のとおりとなる。

批判的意見

  • いいたいことはわかるが言葉が悪い
  • 功績=「死んでくれてありがとう」「よくぞ死んでくれました」
  • 別な表現がいくらでもあるはず/「最後に警鐘を鳴らしてくれた」などの代替案

フォロー意見 

  • 「最後の功績」は不適切だが
  •  これから残された自分たちが功績にしていかなきゃいけない
  • コロナの恐ろしさを身をもって国民に知らしめて、結果的に助かる命がたくさんある

結局、「最後(最期)の功績」という言葉が適切ではないというのはほぼ満場一致の見解であり、そして志村けんさんの死を無駄にしないような行動を取ることが必要だという点でも意見は分かれていないと思われる。全然賛否両論ではない。

報道では東国原英夫さんや和田アキ子さんが疑問を呈していたが、具体的に何がダメなのかは論じられていないので、本稿で考えることととする。

1)志村さんは「メッセージを届けて」いない(受け取るのは勝手だが)

もし志村さん自身から、文書であれ伝言であれビデオメッセージであれ、文字通りの「最後のメッセージ」があったのならこれでもいい。しかし、ここでは「メッセージを届けた」=「亡くなったという事実から我々がメッセージを受け取った」というのが実態である。「本人の意志により、積極的なメッセージが発信されたわけではない」のに「メッセージを届けてくださった」という点が違和感ポイントの一つ目。

実は、志村さんは自分が新型コロナに侵されているという事実を知ることなく、本当にあっという間に逝ってしまったんです

ご自身がコロナだとすら知らずに亡くなったという事実から、その危険性を学び、志村さんの死を無駄にしないようにしようとするのは重要なことだと思うが、しかし、そう受け取るのは「読者の勝手デショ」、志村さんが「メッセージを届けてくださった」という表現にはなりえない。

その後、たとえば芸能人では「キラメイレッド」小宮璃央さん、ケツメイシRYOJIさん、宮藤官九郎さん、黒沢かずこさんなどが感染を発表しているが、いずれも「療養に努め、一日も早い回復を目指す」「迷惑を掛けて申し訳ない」といった趣旨のコメントしかしていない。「コロナって気をつけてた僕たちでも感染するんですよ。気をつけてくださいね」とは一言も言っていない。

したがって、「こんな有名人もかかってるから気をつけなければ」と思うのは受け取り側の我々の勝手であるが、だからといって志村さんをはじめとする有名人の感染者が「コロナウィルスの危険性についてのメッセージを届けてくださった」というのは、おかしな話である。 

※感染した皆さんの一日も早い回復と、感染の広がりが阻止されることを、心から祈ります。

2)「最後の功績」が失礼にあたる理由

【功績】あることを成し遂げた手柄。すぐれた働きや成果。「功績をたたえる」「功績を残す」(デジタル大辞泉

【功績】すぐれた成果。立派な働き。手柄。 「社会福祉に-があった」(三省堂大辞林

【功績】〘名〙 国や社会に尽くしたてがら。また、物事をうまくなしとげたてがら。いさお。功業。(精選版 日本国語大辞典

たとえば、武漢でコロナ禍について最初に警告を発した医師たちに対して「コロナの危険性を伝えた功績」という表現は適切である。

しかし、 国語辞典の解説が言葉のニュアンスのすべてではない。

最後に悲しみとコロナウィルスの危険性について、しっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという最後の功績も大変大きい

結論から言うと、以下の2点を押さえる必要がある。

  1. 「功績」を成し遂げる人は、何事かを成し遂げたいと思って自らの意志で遂行・達成した
  2. その行為は結果を出している
  3. だれかの「功績」を語る人は、上から目線である

まず第1点。コロナであるということすら知らぬ間に危篤状態に陥った志村さんに対して、その死そのものをいくら意味づけしたところで「功績」とは言いがたいことが明白である。

受身での行動について「功績」はあり得ない。

第2点、結果を出さなければ功績はない。もちろん、志村さんの死でコロナを身近に感じ、本気で対策し始めた人が多いという気はする。しかし、それは死の直後にわかることではない。

現在(4月5日現在)はまだ感染拡大中である。まだ功績を語る段階ではない。

嵐ほかジャニーズのグループが手洗いダンス動画「Wash Your Hands」を公開した。これは素晴らしいことであると思うが、それでもまだ「功績」という段階にはない。そのダンスをきっかけにして正しい手洗いを実践する人が増えた、あるいはそれによって感染拡大の歯止めとなったということが判明した時点で初めて「功績」と呼べるわけである。

第3点。精選版日本国語大辞典の「国や社会に尽くしたてがら」という定義が参考になるが、実際には会社や組織や学校、あるいはプロジェクト等に対して「功績」があった、という言い方は成り立つだろう。だが、それを評価するのは、明らかに「尽くされた立場」としての目線なのである。

社長や会長に平社員が「社長は会社に対して多大な功績をあげられました」と言うのは失礼だ。一つ上もしくは対等の立場から「よくやってくれた」というのが「功績」であり、「素晴らしい成果を挙げられました」というのとは話が違う。

  • 功績:上から目線(役に立ったという評価が入る)
  • 成果:達成した結果というナチュラルな用語

志村けんさんに対して「功績も大変大きなものがある」=「よくやってくれた」という上から目線の言い方になる。

もちろん、都知事であるから、都のために尽くした人に対して「すばらしい功績です」と言うのはかまわない。しかし、志村さんは、東京都のために自らの命を捨てたわけではない。だからこそ、都知事の「功績」発言には多くの人が違和感を覚えたのである。

コロナであることすら知らぬ間に亡くなった志村さんに対し、都知事のメッセージは「功績」という言葉を使ってしまったがゆえに、「東京都や社会のために、コロナの怖さを死という形で伝えてくれてありがとう志村さん」というニュアンスになってしまっている。

功績という言葉があるため、真意は別にして文意としては「都民・国民のためによくぞ亡くなってくださった」になってしまう。

もちろん、さすがにそうではないだろうと思っているからこそ、擁護派は「真意はそうではない」と主張し、批判派は「その言葉はありえない」と言っているのだ。都知事は表現について謝罪し、適切な表現で言い直すべきである。

3)最後か最期か

新聞・テレビ等でも「最後の功績」と表記されているが、「最期の功績」とも表記可能である。

最後〔一番あと〕最後のチャンス

最期〔死に際〕最期をみとる。悲惨な最期

共同通信社『記者ハンドブック』)

 功績が数々ある中でのさいごの功績、という意味では「最後」となる。都知事は楽しみや笑いを伝えたという「功績」を挙げ、その(順番的に)最後の功績として悲しみとコロナの危険性を伝えた、という流れで理解すれば「最後」表記でも間違いではない。

ただ、死の間際の最期の功績、ということでも理解可能なはずである。そして、この方が凄絶な、重みのあるメッセージといえる。

もちろん、志村さん自身は楽しさや笑いを意図的に伝えようとしたが、悲しみやコロナの危険性はそうではない。「功績」という言葉の不適切さが、ここでも邪魔となる。

結論:最後の功績という表現は適切でない

このブログは日本語表現としての適切さを検討するものであり、言葉狩りではない。

ただ、この「最後に悲しみとコロナウィルスの危険性についてしっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという最後の功績」という都知事の表現は適切ではないというのが結論である。

たとえばアル中と喫煙で亡くなった人に対し、「アル中と喫煙の危険性についてしっかりメッセージを届けてくださったという最後の功績」などと遺族に言おうものならどうなるか。嫌味によって死者を冒涜していると感じるはずである。

コロナに対して真剣に向き合うことは必要である。都知事が適切な指示を出すことも必要である。しかし、目的が適切であっても、ニュアンスとして「志村さんの死を踏み台にし、利用したい」という気持ちがあるかのように伝えてしまう表現は、本人の人間性を疑わせることにもなり、また、そちらの方が本音であるかのように受け取られてしまう

志村さんの死は、コロナ拡大を防ぐためのきっかけとして、個々人が意識すべきことだとは思う。しかし、いかに感染拡大阻止という大義があろうと、都知事という権力者が、死を道具として利用するという意味になってしまう言い方に対しては「人の死を何だと思っているのだ」という反発が強いはずだ。

本意かどうかは別にして、都知事は失礼な言い方をした。それが事実だ。「最後の功績」という表現に対する反発は、すべてここに起因しているといえる。