首相夫人・安倍昭恵氏の「参拝したが観光していない」は日本語的に成立しない
首相夫人が宇佐神宮に参拝し、セミナーに参加したが、観光はしていない(し、三密を避けていたからセーフ)という首相答弁は、日本語的には成立しない。
安倍晋三首相の妻・昭恵氏が新型コロナウイルス対応の改正特措法が施行された翌日の3月15日に大分県の神社を参拝していたことについて、安倍晋三首相は衆院厚生労働委員会で「参拝以外は特に観光などは行っていない。参拝時に限って、あえてマスクを外したということだった」と説明した。
首相は昭恵氏の参拝について「団体のツアーに参加したものではない。参拝のみ団体と合流した」と強調した。「事前に本人より聞いていた。『3密とならないようしっかり気をつけてもらいたい』と申し上げた」と説明した。
本稿では、「参拝」および「セミナー参加」が「観光」に含まれるか否かを日本語の意味的に考察する。
「観光」「参拝」「セミナー参加」の意味を忖度・斟酌する
どうやら、安倍首相は「観光」という言葉を「物見遊山」とか「行楽」すなわちレジャーとしてのお楽しみの旅行というふうに使っているように思われる。
まず、宇佐神宮への「参拝」はどういう行為か。「参拝のみで観光していない」ということだが、首相の発言を最大限忖度・斟酌するに、これは八幡神の本拠地ともいえる聖地宇佐神宮を訪問し、宗教的活動を行ったという趣旨ということになろう。つまり、宗教行為であってお遊びではないということだ。
次に、超高次元医療を標榜し、ドクタードルフィンと自称する人物のセミナーに参加したという。
せっかくの宇佐神宮なのだから卑弥呼より八幡神が降臨してくれてもいいと思うのだが、ともあれ、これもスピリチュアル的な講演ということで、「宗教行為」もしくは「学習」であると位置づけていいだろう。
すなわち、安倍首相に忖度してその発言を解釈すれば、「妻が宇佐に行ったのは宗教的行為および学習のためであって、決してお遊びの観光などではない。だから、この旅行を責められるいわれはない」という意味になるだろう。
しかし、その言い訳は成立しない。
厳密な「観光」の意味
【観光】[名](スル)他の国や地方の風景・史跡・風物などを見物すること。「各地を観光してまわる」「観光シーズン」「観光名所」
[補説]近年は、娯楽や保養のため余暇時間に日常生活圏を離れて行うスポーツ・学習・交流・遊覧などの多様な活動をいう。また、観光庁などの統計では、余暇・レクリエーション・業務などの目的を問わず、1年を超えない非日常圏への旅行をさす。(デジタル大辞林)
厳密に言えば、どこからどこまでが「観光」で、何が「観光ではない」という線引きについては、微妙に曖昧なところがある。「見物」という語義でいえば、確かに安倍首相的な用法もありえるかもしれないが、やはりそこに違和感を覚える人がおおいのは事実である。
ただ、「厳密な定義がないのだから、首相夫人の参拝は観光ではない」と言う人がいるかもしれないが、そんな乱暴な話にはならない。ある程度の共通認識は存在している。観光学における観光の定義『観光学を学ぶ人のために』序章では以下のように記されている。
わが国の観光の公的な定義としては、1970年の観光政策審議会が内閣総理大臣諮問に対する答申の中で規定した「観光とは自己の自由時間(=余暇)の中で、鑑賞、知識体験、活動休養、参加精神の鼓舞等、生活の変化を求める人間の基本的欲求を充足するための行為(=レクリエーション)のうち、日常生活圏を離れて異なった自然、文化等の環境のもとで行おうとする一連の行動をいう」とした表現があった。さらに1995年に新たな答申を行うにあたり再検討され、「余暇時間の中で、日常生活圏を離れて行う様々な活動であって、触れ合い、学び、遊ぶということを目的とするもの」と定義された。この定義の中で用いられている「様々な活動」すなわち観光活動については、特定することは極めて難しいといえよう。「触れ合い、学び、遊ぶということを目的とするもの」の文面からビジネス即ち「商用旅行」は除外されると読み取れるが、2000年度版「観光白害」では「兼観光」という言葉が用いられており、楽しみを兼ねる商用旅行の存在も認められている。
一方で、国際観光の分野では「商用の活動」も含まれている。国連世界観光機関(UNWTO)では観光(tourism)を次のように定義している。
"Tourism comprises the activities of persons traveling to and staying in places outside their usual environment for not more than one consecutive year for leisure, business and other purposes.”
この定義の日本語訳としては次のようになるであろう。「観光とは、継続して1年を超えない範囲で.レジャーやビジネスなどの目的で日常生活環境以外の場所に旅行し、滞在する人の活動を指す」。また観光庁が実施している「訪日外国人消費動向調査」では来訪目的に「業務」という項目があり、商用も含めての調査となっている。観光の研究や調査をする場合に、この観光や観光客の定義が重要になってくることはいうまでもない。そのために観光庁では「観光立国推進基本法」に基づいて観光に関する統計の整備を実施している。観光客に関しては、国連世界観光機関を中心に標準化が推進されているとして以下のように定義し、統計資料として整備、集計し始めた。それによると観光客の定義としては「ビジネス.レジャーあるいはその他個人的な目的で、1年未満の期間非日常圏に移動する旅行者」とし、「国内居住者の国内観光(domes-tic)、国外の居住者の国内への観光(inbound)、国内居住者の国外への観光(outbound)を区別する」としている。また、宿泊客旅行に関しては「自宅以外で1泊以上の宿泊をする全ての旅行」、日帰り旅行は「片道の移動距離が80km以上、又は所用時間(移動時間十滞在時間)が8時間以上の非日常圏への旅行」としている。観光がわが国の重要な産業の構成要素として認識されつつある状況の中で、ようやく観光の概念力潅理されつつあるといえよう。
以上のことから、本書なりに観光を一言で表現するなら、日常の居住地を離れ、飲食や鑑賞、体験をすることであるといえるだろう。また観光は広い意味での「観光客」や「旅行者」、非日常体験をする観光地などの観光対象となる「観光資源」、それらをサポートする観光産業や交通手段も含めての「観光関連産業」、そして観光客を受け入れる「地域社会」等によって構成されている。居住者が観光を意識する要因は、その人の経験や日常生活にある内部的要因やマスコミやネットからの情報アクセスや施設の話題性などの複合したものであり、それらを支える観光産業や施設そして観光資源や地域社会の歴史.風土・産業も多彩である。またそれらは技術革新や意識変化などにより時代とともに変化している。
日常の居住地を離れ、飲食や鑑賞、体験をすること。その「非日常体験」の中には、「触れ合い、学び、遊ぶということを目的とするもの」が含まれる。宇佐神宮への参拝、およびスピリチュアルな講師のセミナーへの参加はいずれも「観光における非日常体験」であると断定できる。
宗教ツーリズム
宗教的行為は観光に含まれないと主張する人がいるかもしれない。しかし、ただ寺社に参詣するだけの「旅行」をした場合、それを観光と言わないか。一般的な感覚からいっても、それは観光である。「伊勢神宮にお参りしてきましたが赤福を買わずにそのまま帰ってきたので、これは観光ではありません」という人がいたら、明らかにおかしい。普段行けない地域に住んでいる人が「靖国神社に参拝してきました」「日光東照宮にお参りしてきました」というのであれば、明らかに観光である。
また、「宗教ツーリズム」(聖地巡礼)についても近年研究が進んでいる。聖地を訪れる行為はツーリズム(観光)に含まれている。
東京を離れて別府・宇佐でおこなった宗教的行為も、セミナー参加も、明確に「観光」であることは言うまでもない。
参拝・学習は「観光・レクリエーション旅行」に含まれる
観光庁の「旅行・観光消費動向調査」の調査票では、旅行の目的について3分野に分けている。
- 観光・レクリエーション旅行
- 帰省・知人訪問・結婚式・葬式等への参加
- 出張・業務旅行
以上の3分野を見る限り、「旅行」という大きな括りの中に狭義の「観光」が含まれることになる。
三つ目の「出張・業務旅行」は仕事としての旅行であるが、実際には「観光することが業務の一部」という「兼観光」も存在している。安倍昭恵さんは私人であり、業務として参拝や学習を行ったわけではないから、ここには該当しない。
二つ目の「帰省・知人訪問・結婚式・葬式等への参加」について、ドクタードルフィンに私的に会いに行ったというならともかく、ドクタードルフィンのイベントの一部としての参拝・学習に合流したというのであるから、これも該当しない。
つまり、安倍昭恵さんの3月15日宇佐行きは、観光庁の「旅行・観光消費動向調査」においては、「観光・レクリエーション旅行」に該当する。極めて狭義の「観光」つまり物見遊山や行楽ではなかったとしても、「レクリエーション旅行」であることは間違いない。
週刊文春記事によれば、「コロナで予定がなくなっちゃったので、どこかへ行こうとは思っていた」との理由で参拝を決めたという。明らかにレクリエーションとしての観光にほかならない。
そして、首相は、三密でなければ旅行していいというふうには国民に対して言っていないはずである。妻はいいが国民はダメ、というなら反感しか生まない。宇佐神宮参拝が観光か否か以前の問題である。
小池都知事の志村けん「最後の功績/最期の功績」発言の日本語的不適切性
志村けんさんの訃報に対し、心からお悔やみを申し上げます。
さて、この訃報に接しての小池都知事の「最後(最期)の功績」コメントが炎上している。
謹んでお悔やみを申し上げたいと存じます。
志村さんといえば、(ほんとにあの、)エンターテイナーとして(ですね)、みんなに(、あの、よろ……なに……)楽しみであったり、それから、笑いを届けてくださったと感謝したい。
で、最後に(ですね、)悲しみとコロナウィルスの危険性について(ですね)、しっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという(、その功績も、){最後/最期}の功績も大変大きいものがあると思っております。
「 コロナウィルスの危険性についてメッセージを届けたという{最後/最期}の功績」という表現が不適切だと炎上した。
なお、一般的に「最後の功績」と書かれていることが多いが、これは数々の功績の中の「最後」であると同時に、臨終を表す「最期」の意味で発言されたものであるとも理解できるため、本稿では両方を検討することとする。
この『女性自身』の記事で挙げられた批判とフォローのそれぞれの要点をまとめると、以下のとおりとなる。
批判的意見
- いいたいことはわかるが言葉が悪い
- 功績=「死んでくれてありがとう」「よくぞ死んでくれました」
- 別な表現がいくらでもあるはず/「最後に警鐘を鳴らしてくれた」などの代替案
フォロー意見
- 「最後の功績」は不適切だが
- これから残された自分たちが功績にしていかなきゃいけない
- コロナの恐ろしさを身をもって国民に知らしめて、結果的に助かる命がたくさんある
結局、「最後(最期)の功績」という言葉が適切ではないというのはほぼ満場一致の見解であり、そして志村けんさんの死を無駄にしないような行動を取ることが必要だという点でも意見は分かれていないと思われる。全然賛否両論ではない。
報道では東国原英夫さんや和田アキ子さんが疑問を呈していたが、具体的に何がダメなのかは論じられていないので、本稿で考えることととする。
1)志村さんは「メッセージを届けて」いない(受け取るのは勝手だが)
もし志村さん自身から、文書であれ伝言であれビデオメッセージであれ、文字通りの「最後のメッセージ」があったのならこれでもいい。しかし、ここでは「メッセージを届けた」=「亡くなったという事実から我々がメッセージを受け取った」というのが実態である。「本人の意志により、積極的なメッセージが発信されたわけではない」のに「メッセージを届けてくださった」という点が違和感ポイントの一つ目。
実は、志村さんは自分が新型コロナに侵されているという事実を知ることなく、本当にあっという間に逝ってしまったんです
ご自身がコロナだとすら知らずに亡くなったという事実から、その危険性を学び、志村さんの死を無駄にしないようにしようとするのは重要なことだと思うが、しかし、そう受け取るのは「読者の勝手デショ」、志村さんが「メッセージを届けてくださった」という表現にはなりえない。
その後、たとえば芸能人では「キラメイレッド」小宮璃央さん、ケツメイシRYOJIさん、宮藤官九郎さん、黒沢かずこさんなどが感染を発表しているが、いずれも「療養に努め、一日も早い回復を目指す」「迷惑を掛けて申し訳ない」といった趣旨のコメントしかしていない。「コロナって気をつけてた僕たちでも感染するんですよ。気をつけてくださいね」とは一言も言っていない。
したがって、「こんな有名人もかかってるから気をつけなければ」と思うのは受け取り側の我々の勝手であるが、だからといって志村さんをはじめとする有名人の感染者が「コロナウィルスの危険性についてのメッセージを届けてくださった」というのは、おかしな話である。
※感染した皆さんの一日も早い回復と、感染の広がりが阻止されることを、心から祈ります。
2)「最後の功績」が失礼にあたる理由
【功績】あることを成し遂げた手柄。すぐれた働きや成果。「功績をたたえる」「功績を残す」(デジタル大辞泉)
【功績】すぐれた成果。立派な働き。手柄。 「社会福祉に-があった」(三省堂大辞林)
【功績】〘名〙 国や社会に尽くしたてがら。また、物事をうまくなしとげたてがら。いさお。功業。(精選版 日本国語大辞典)
たとえば、武漢でコロナ禍について最初に警告を発した医師たちに対して「コロナの危険性を伝えた功績」という表現は適切である。
しかし、 国語辞典の解説が言葉のニュアンスのすべてではない。
最後に悲しみとコロナウィルスの危険性について、しっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという最後の功績も大変大きい
結論から言うと、以下の2点を押さえる必要がある。
- 「功績」を成し遂げる人は、何事かを成し遂げたいと思って自らの意志で遂行・達成した
- その行為は結果を出している
- だれかの「功績」を語る人は、上から目線である
まず第1点。コロナであるということすら知らぬ間に危篤状態に陥った志村さんに対して、その死そのものをいくら意味づけしたところで「功績」とは言いがたいことが明白である。
受身での行動について「功績」はあり得ない。
第2点、結果を出さなければ功績はない。もちろん、志村さんの死でコロナを身近に感じ、本気で対策し始めた人が多いという気はする。しかし、それは死の直後にわかることではない。
現在(4月5日現在)はまだ感染拡大中である。まだ功績を語る段階ではない。
嵐ほかジャニーズのグループが手洗いダンス動画「Wash Your Hands」を公開した。これは素晴らしいことであると思うが、それでもまだ「功績」という段階にはない。そのダンスをきっかけにして正しい手洗いを実践する人が増えた、あるいはそれによって感染拡大の歯止めとなったということが判明した時点で初めて「功績」と呼べるわけである。
第3点。精選版日本国語大辞典の「国や社会に尽くしたてがら」という定義が参考になるが、実際には会社や組織や学校、あるいはプロジェクト等に対して「功績」があった、という言い方は成り立つだろう。だが、それを評価するのは、明らかに「尽くされた立場」としての目線なのである。
社長や会長に平社員が「社長は会社に対して多大な功績をあげられました」と言うのは失礼だ。一つ上もしくは対等の立場から「よくやってくれた」というのが「功績」であり、「素晴らしい成果を挙げられました」というのとは話が違う。
- 功績:上から目線(役に立ったという評価が入る)
- 成果:達成した結果というナチュラルな用語
志村けんさんに対して「功績も大変大きなものがある」=「よくやってくれた」という上から目線の言い方になる。
もちろん、都知事であるから、都のために尽くした人に対して「すばらしい功績です」と言うのはかまわない。しかし、志村さんは、東京都のために自らの命を捨てたわけではない。だからこそ、都知事の「功績」発言には多くの人が違和感を覚えたのである。
コロナであることすら知らぬ間に亡くなった志村さんに対し、都知事のメッセージは「功績」という言葉を使ってしまったがゆえに、「東京都や社会のために、コロナの怖さを死という形で伝えてくれてありがとう志村さん」というニュアンスになってしまっている。
功績という言葉があるため、真意は別にして文意としては「都民・国民のためによくぞ亡くなってくださった」になってしまう。
もちろん、さすがにそうではないだろうと思っているからこそ、擁護派は「真意はそうではない」と主張し、批判派は「その言葉はありえない」と言っているのだ。都知事は表現について謝罪し、適切な表現で言い直すべきである。
3)最後か最期か
新聞・テレビ等でも「最後の功績」と表記されているが、「最期の功績」とも表記可能である。
最後〔一番あと〕最後のチャンス
最期〔死に際〕最期をみとる。悲惨な最期
(共同通信社『記者ハンドブック』)
功績が数々ある中でのさいごの功績、という意味では「最後」となる。都知事は楽しみや笑いを伝えたという「功績」を挙げ、その(順番的に)最後の功績として悲しみとコロナの危険性を伝えた、という流れで理解すれば「最後」表記でも間違いではない。
ただ、死の間際の最期の功績、ということでも理解可能なはずである。そして、この方が凄絶な、重みのあるメッセージといえる。
もちろん、志村さん自身は楽しさや笑いを意図的に伝えようとしたが、悲しみやコロナの危険性はそうではない。「功績」という言葉の不適切さが、ここでも邪魔となる。
結論:最後の功績という表現は適切でない
このブログは日本語表現としての適切さを検討するものであり、言葉狩りではない。
ただ、この「最後に悲しみとコロナウィルスの危険性についてしっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという最後の功績」という都知事の表現は適切ではないというのが結論である。
たとえばアル中と喫煙で亡くなった人に対し、「アル中と喫煙の危険性についてしっかりメッセージを届けてくださったという最後の功績」などと遺族に言おうものならどうなるか。嫌味によって死者を冒涜していると感じるはずである。
コロナに対して真剣に向き合うことは必要である。都知事が適切な指示を出すことも必要である。しかし、目的が適切であっても、ニュアンスとして「志村さんの死を踏み台にし、利用したい」という気持ちがあるかのように伝えてしまう表現は、本人の人間性を疑わせることにもなり、また、そちらの方が本音であるかのように受け取られてしまう。
志村さんの死は、コロナ拡大を防ぐためのきっかけとして、個々人が意識すべきことだとは思う。しかし、いかに感染拡大阻止という大義があろうと、都知事という権力者が、死を道具として利用するという意味になってしまう言い方に対しては「人の死を何だと思っているのだ」という反発が強いはずだ。
本意かどうかは別にして、都知事は失礼な言い方をした。それが事実だ。「最後の功績」という表現に対する反発は、すべてここに起因しているといえる。
「募ってはいるが募集はしてない」の日本語教育的解析
「募る」と「募集する」は何が違いますか
2020年1月28日衆議院予算委員会で、日本国首相が「 #募ってはいるが募集はしてない 」と発言した。
【字幕表示できます】「#募ってはいるが募集はしてない」安倍さん、小学校からやり直し!2020年1月28日衆議院予算委員会
宮本徹議員「推薦しているわけじゃないですよ。募集をしているんですよ、これはね。募集しているっていうことについては、いつからご存知だったんですか。」
安倍首相「あの、ま、私はですね、ま、幅広く募っているという認識で、ございました。募集しているという認識ではなかった……のです」
委員長「まずご静粛にお願いいたします。宮本徹君」
宮本議員「あの、私も日本語をいままで48年間使ってまいりましたけども、募るっていうのは募集すると同じですよ。募集のボは募るっていう字なんですよ。総理がさっきから募ってる募ってるといってるのは、募集しているということなんですよ。その認識がなく、募ってるというお言葉を使っていたんですか。ねえ、募集のボはですよね、募るは。違いますか。」
安倍首相「あのえ-それはですね、まつまりえー事務所がですね、ま、いわば、いままでのですね、経緯の中において、それに相応しい方々に声をかけていると。そこでそれぞれが桜を見る会に参加をするかどうかということについて伺っていると。まあ、そういう意味において、募るということを、えー、申し上げているところでございます。」
留学生から「募る と 募集する は何が違いますか」という質問が来ることが想定できる。そこで、その違い(違わない点)について、日本語教育の語彙指導的な観点からまとめておきたい。以下、初中級くらいの授業風に。授業風なのでマス形主体に。
募ります
「募ります」も「募集します」も動詞ですね。
「募ります」は、グループⅠ*1の動詞です。テ形は「募って」、タ形は「募った」、ナイ形は「募らない」、辞書形は「募る」ですね。
「募ります」は二つの意味があります。
1つめは、「こんな会がありますよ。どうぞ来てください」といろいろな人を呼びます。または、いろいろなものを集めます。これは他動詞ですから、「~を募ります」と言います。「参加者を募ります」「コンテストの作品を募ります」。
「桜を見る会の参加者を幅広く募ります」は、「桜を見る会に来たい人はいませんか」と、いろいろな人に話します。「幅広く」は、いろいろな人に、の意味です*2。
2つめは、自動詞で、「大きくなります」の意味です。特に、心の中の気持ちが大きくなります。「思いが募ります」「悲しみが募ります」「不安が募ります」「不信感が募ります」。
「彼氏・彼女への思いが募ります」もありますが、勝手に大きくなるというニュアンスなので、どちらかといえばよくない気持ちが募ることが多いです。
そのほか、「寒さが募ります」「風が吹き募ります」などの言い方もあります。
今回、首相が言ったのは、一つ目の意味ですね。
募集します
「募集します」は、グループⅢ*3の動詞です。テ形は「募集して」、タ形は「募集した」、ナイ形は「募集しない」、辞書形は「募集する」ですね。
「募集する」は、「こんな会がありますよ。どうぞ来てください」といろいろな人を呼びます。または、いろいろなものを集めます。これは他動詞ですから、「~を募集します」と言います。「参加者を募集します」「コンテストの作品を募集します」。
「桜を見る会の参加者を募集していません」は、「桜を見る会に来たい人はいませんか」と、いろいろな人に話していませんでした、ということです。または、「参加したいと言ってくる人がいても、お断りしました」ということになります*4。
「募集します」には、「募ります」の2つ目の意味はありません。「不安が募集します」「不信感が募集します」は言いません。「寒さが募集します」もありません。
なお、「募集します」は「募集をします」と言うことができます。ただし、その場合、「桜を見る会の参加者〔の〕募集をします」と、助詞が変わります。
「募ります」と「募集します」の違い
では、「募ります」と「募集します」は何が違いますか。
1)「募ります」はグループⅠの動詞です。「募集します」はグループⅡの動詞です。
2)「募ります」は自動詞の「~が募ります」の形があります。「募集します」は自動詞の形がありません。
3)他動詞の形の「~を募ります」と「~を募集します」はどちらも使います。意味も同じです。
4)「募ります」は和語の動詞ですから、訓読みです。「募集します」は漢語を動詞にしたものですから、音読みです。
5)和語は一般的に話しことば的でやわらかい印象があります。漢語は一般的に書きことば的で硬い印象があります。
5のとおり、硬さ・柔らかさ、書きことば的・話しことば的という違いはありますが、意味は同じです。
「募ってはいるが募集はしてない」というのはまったく意味が通じませんから、皆さんは言わないようにしてくださいね。私も日本語をいままで○○年間使ってまいりましたけれども、こんな表現はたった一度しか聞いたことがありません。
――教室での指導であればこの程度で終わりである。
首相の「募ってはいるが募集はしてない」発言の意図を忖度してみる
安倍首相「事務所が今までの経緯の中において、それに相応しい方々に声をかけている、と。そこで、それぞれが桜を見る会に参加をするかどうかということについて伺っている、と。そういう意味において募るということを申し上げているところでございます。」(※フィラーを削除)
安倍首相の発言では、「事務所が相応しい方々に声をかけて、参加の意向を尋ねている」ことを、「募る」ではあるが「募集する」ではない、と述べている。
首相の意図を忖度してみると、「事務所が一人ひとりに声をかけた」場合は「募る」、もし大々的に「参加者募集中!」と告知していれば「募集する」、という使い分けが首相の脳内には存在したのではないか、と推測される。つまり、こちらから一人ひとりに声をかけたら「募る」、不特定多数を受け入れるのであれば「募集する」という、首相オンリーのマイ言語ルールがあったのかもしれない。
その推測の根拠は、上記の違い5にある。つまり、和語はプライベートで私的な行為、漢語は正式かつ公的な行為に用いる、というようなニュアンスの違いを感じていたのではないか、ということである。
確かに、個別に参加の意向を尋ねるという場合に「募集する」は使いにくい気もするが、だとしたらそれは「募る」も同様である。「参加したい人はいませんか」は「参加者を募る」でもあり、「参加者を募集する」でもある。
こちらから声を掛けたのだ、来たい人を広く集めたのではない、と言いたいのだとしても、「幅広く募っている」はアウトである。
首相は、言葉尻をとらえられないようにしようと思うのであれば、「事務所から、幅広い人に声をかけて参加の意向を尋ねたことはあるが、誰でも参加できるような募集をかけたことはない」とでも言うべきであった*5。
結論としては、「募ってはいるが募集はしてない」という表現は、日本語的に破綻しているということである。
伝聞の「そう。」が急増している
伝聞+「そう。」
という形の言い切りがコラム記事などで急増しているように思われる。
机にバラけて混ぜ混ぜする原始的方法ながらに1分執念で続ければ教授のテストをクリアするぐらいには混ざるのだそう。
国立天文台によると2015年4月4日の皆既月食は、皆既食だけでなく部分色のはじめから終わりまでを日本全国で見ることができるのだそう。
(いずれも下線部強調は引用者)
ここは本来「混ざるのだそうだ。」「見ることができるのだそうです。」のように、語末に断定の言葉が来なければならない。
何でもネギには抗菌・殺菌作用のある成分が含まれていて、喉の炎症を抑える効果があるのだそうです。
「○○そうだ/そうです」には2種類あり、様態をあらわす場合は「○○そう。」と言い切ってもかまわない。しかし、伝聞の場合は「そう。」が使えない……というのがこれまでの用法だったのだが、どうもここ数年で「伝聞+そう。」の言い切り形が増えているように思われる。詳細は続きで。
続きを読む「技能実習生としての外国人介護人材受入れ」への反応と私見
2015 年 2 月 4 日(水)、厚生労働省から「外国人介護人材受け入れの在り 方に関する検討会中間まとめ」が発表された。
外国人介護人材受入れの在り方に関する検討会審議会資料 |厚生労働省
PDFはこちら↓
これはあくまでも「外国人介護人材受入れの在り方に関する検討会 中間まとめ」であって、結論というわけではないのだが、公益社団法人日本語教育学会の反応は早く、2月6日に声明が出された。
http://www.nkg.or.jp/oshirase/2015/kaichoseimei.pdf
会長声明「技能実習生としての外国人介護人材受入れについて」
これについて、思うところを述べてみる。
続きを読む1人の日本語教師が見る曽野綾子発言の問題点
曽野綾子氏が産経新聞のコラムで書いた「アパルトヘイト(人種隔離)許容発言」が物議を醸している。原文は下記のリンクで読める。
http://pbs.twimg.com/media/B9hkP4DIAAAGKYa.jpg
前半は、介護分野における労働移民について「資格や語学力といった分野のバリアを取り除く」ことが主張されており、後半で「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と記されている。
特に問題視されているのは後段で、南アフリカのヨハネスブルグのマンションに黒人が住むようになったら水が出なくなったというたった一つの、しかも出所不明・真偽不明なエピソードをもとに、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と述べている。
私は前段にも後段にも反対である。特に、曽野氏の最大の問題は、差別か区別かというところではなく、「文化的背景で区別された人たちは相互理解・共生することができない」と考えているところにあるのではないか、というのが今回の結論である。その理由を以下に述べる。ただし、私の発言は日本語教師を代表してというわけではないので、その点はご了承いただきたい。
続きを読むiPhone欠席
そういえば以前在籍していたスコットランド出身の学生が、「イギリス人?」と聞くと必ず「スコットランド人です」と答えていたなあ……と思い出しながら、スコットランド独立否決のニュースを見ている。
さて。
今日は学期の修了式で、休み前最後(修了者にとっては日本語学校最後)の日なのだからぜひ出席してほしいわけだが、特に午前クラスで欠席が目立った。
徹夜組も含めて、iPhone 6購入の行列に並んでいたのだという。中には、iPhoneの予約を完了した後、授業の途中や終わった後に学校にやってきた学生たちもいた。聞けば大体、自分の分と友だちの分、2つを確保していたようである。ただ、即日入手ではなく予約になった学生も多かったようだ。このiPhone欠席・遅刻組の大半は中国からの学生だった。ベトナム学生は資金力がないし、欧米圏の学生は逆に初日購入ということ自体にあまり興味がないようだった。ただ、中国学生も転売目的というわけではないようだった。
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