違いのわかる日本語――日本語教師の日本語メモ

日本語学校で教えている日本語教師の備忘的メモです。学術的な正確さは保証の限りではありません。このブログの記載は、勤務先の日本語学校の見解ではありません。随時修正・追記します。

1人の日本語教師が見る曽野綾子発言の問題点

曽野綾子氏が産経新聞のコラムで書いた「アパルトヘイト(人種隔離)許容発言」が物議を醸している。原文は下記のリンクで読める。

http://pbs.twimg.com/media/B9hkP4DIAAAGKYa.jpg

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前半は、介護分野における労働移民について「資格や語学力といった分野のバリアを取り除く」ことが主張されており、後半で「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と記されている。

特に問題視されているのは後段で、南アフリカヨハネスブルグのマンションに黒人が住むようになったら水が出なくなったというたった一つの、しかも出所不明・真偽不明なエピソードをもとに、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と述べている。

私は前段にも後段にも反対である。特に、曽野氏の最大の問題は、差別か区別かというところではなく、「文化的背景で区別された人たちは相互理解・共生することができない」と考えているところにあるのではないか、というのが今回の結論である。その理由を以下に述べる。ただし、私の発言は日本語教師を代表してというわけではないので、その点はご了承いただきたい。

 労働移民に資格や語学力は必要ないか

日本語学校にやってくる留学生は、少し前は「日本の大学へ進学したい中国人学生」が多かったが、今は中国人学生も大学院や美大や専門学校への志望が増えている。また、ここ数年急増しているベトナム・ネパールからの留学生は専門学校へ進みたいと考えている学生が多い。ただ、進学希望者の進路内容だけでなく、日本語学校から直接日本企業へ就職したいという学生の比率が非常に増えているというのが最近の傾向である。その傾向は、中国人学生や欧米系学生に顕著だ。少なくとも私の働いている日本語学校ではそうであるし、他校でもそのような傾向があると聞いている。

また、フィリピン、インドネシアベトナム等とのEPA協定により、介護士・看護師に日本語教育を施してから日本での就労ビザを発給するという事業も展開されている。私もほんの少しだがその一部に関わっているので、曽野綾子氏の介護分野における発言に対して意見を言っても、門外漢というわけではないだろう。

現在、外国人に対する就労ビザの発給条件は極めて厳しく、何らかの専門技能を有していること、もしくは事務系などでは四大卒以上であることが必須となっている。専門学校卒業で専門士の資格を持っていても、業務内容によっては就労ビザが出ない。時々「今働いているアルバイト先の人が、正社員にならないかといってるんだけど、就労ビザに切り替えられますか」という質問が出てくる。答えは、アルバイト内容と本人の学歴による、ということになる。少なくとも「服屋のショップ店員のアルバイト」や「回転寿司のアルバイト」がたとえ正社員になったとしても、そのままの仕事内容ではビザが下りる可能性は限りなくゼロに近い。これがプログラミングできる人であれば、日本語力が多少低くても英語力で某「社内公用語が英語」のIT企業に入れたりするわけだが……。

もちろん、これらの制約を入管が課してくれているために、日本では外国人の単純労働が厳しく制約されている。コンビニの弁当工場や宅配便の仕分けアルバイトで働いている外国人労働者は、就労ビザではなく、配偶者ビザなど仕事に制約のないビザを持っているか、もしくは留学ビザの学生が週28時間以内で行っている、というのが多いだろう。だから、日本では外国人が奴隷的労働に従事することは(一応)制限されている。

しかし、日本が好きだから日本で働きたいが条件に合わず泣く泣く帰国する学生を毎年見ているので、就労ビザの要件がもう少し緩和されたら……とは思っている。クールジャパン政策もしくはオリンピック対策の一環で「和食を専門学校で学んだ学生は、2年間だけ和食店で働く就労ビザが出る」ということになったが、それでもたった2年である。まだ未熟な状態で帰国させて、和食を世界に広めようという、なんとも中途半端な政策だ(専門学校の中には、その対策として、世界的チェーンを展開する和食企業と連携するところも出ているが……)。

で、本題である。「高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないということは全くないのだ」「優しければそれでいいのだ」という曽野氏の発言は、はっきり言って暴論である。もちろん、優しさは大事である。しかし、その優しさは、少なくともプロの介護士であれば、きちんとした介護の知識に基づいたものでなければならない。それこそが本当の優しさである。

「おばあちゃん、これ食べるか?」と言えればいい、と曽野氏はいうが、「いや、もう少し軟らかくして」と言われて理解できなければ、介護にならない。あるいは上司からの指示を理解して、対応しなければならない。つまり、ある程度の日本語力は必要だ。

また、介護士として日本に来る外国人は基本的にホーム等の施設に配属される。そこにはプロの仕事が求められる。たとえば施設内の状況によって危険状況が察知されるなら、上司に報告して危険な状況を取り除く必要がある。たとえば、廊下に置いてあるものが通行の支障になり、つまづきかねないなら、その状況をきちんと報告できなければならない。

そのためには、日本語力や専門知識が一定程度以上必要になるのは当然ではないか。

もちろん、「移民としての法的身分は厳重に守る」という発言には賛成である。

居住区は分けた方がいいか

曽野氏が挙げた実例についての批判は多くのところですでになされているので、ここで屋上屋を架すことはしない。

「白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画」という言葉がすでに無知をさらけ出している。日本へ来ているベトナム留学生は、2Kくらいのアパートに7人くらい住んでいたりする。単なる文化の「違い」である。

文化の違いをただ「違い」として理解し、そこに「優劣」や「善悪」を持ち込まないのが多文化共生の基本的な考え方である。そして、「違い」をお互いが理解し、歩み寄ろうというのが多文化共生の土台となる。ここでいう「理解」ができていれば、相手の文化に自分が全面的に合わせることもなければ、相手の文化を全面的に捨てさせることでもない。違うということを「お互いに理解」し、そこに衝突が起こりかねないのであればお互いを尊重しながらも落としどころを見つけていくのがよいやり方だと考える。

曽野氏の挙げた例が仮に実話だとしても、「黒人大家族が水を使いすぎるので足りなくなった」という問題を、「白人が逃げ出す」という方法に落ち着いたのは、決して唯一の結末ではない。たとえば「水がたくさん使えるように設備投資する」という方向での解決も可能だっただろう。それを「文化が違う人がやってくると、先住者が追い出される」というストーリーに落とし込んだところに、曽野氏の「多文化共生への無理解」があると思う。その背景には「文化が違う人がやってくると、衝突が発生し、その衝突は解決できない」という考え方があると思う。

この件について、曽野氏は荻上チキ氏のインタビューに対し、「差別ではなく区別だ」と語ったという。


荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし - さかなの目

この発言は間違っている。居住区を分けるということは、異なる生活スタイルの者は共同生活できない、と断定したということである。文化が違う者は、仕事などではある程度共同作業ができても、相互理解・共同生活はできないと断定したのである。

この理屈が正しければ、国際結婚は成り立たないし、いや日本国内でもたとえば関西人と東京人が結婚するのもいずれ破綻して当然という話になるが、納豆好きと納豆嫌いが共存している夫婦は当然たくさんいる。文化が違っても、それなりにやり過ごすことは難しいことではない――本当に相手を理解し、尊重しつつ、自分の意見もきちんと表明できるのであれば。

というと、多文化共生はヨーロッパで失敗し、結局移民排斥に移っているではないかという反論が予想される。しかし、欧州で多文化共生政策が行き詰まっているのは、多文化共生理論の欠点というより、「政策上の共生が強制されたが、人々は多文化共生の意識を持っていなかった」からではないかと考える。もちろん、日本では多文化共生の教育も始まったばかりだし、中には「多文化共生を肯定する人を罵倒する」かのような残念な例もあったりするのだが。

少なくとも日本語学校のクラスでは、同じ出身地の学生が多すぎると派閥化しがちである。しかし、多国籍クラスになると、自然と共生へと向かう傾向にある。もちろん、国籍や文化による衝突が起こることもまれにあるが、政府間が激しく対立している中国とベトナムの学生が同じクラスにいても友人関係を築けるというのはごく普通の光景である(し、そのようにしなければならないと考えている)。

と考えてくると、曽野氏の問題は、差別意識(違いに対して上下・優劣をつける意識)ということではないかもしれない、と思う。そう、確かに「差別ではなく区別」をしているのだが、「文化的に区別された人たちは相互理解・共存共生していくことができない」と考えているのが最大の問題ではないだろうか。

差別だったら区別だからいいだろ、という開き直りは通用しないのである。